世紀末のおひなさま

所謂、毒親・毒子・人格障害(特にNPD)の行動に振り回されたサバイバーの自伝的なアレ

毒親に思いを伝えるタイミング

所謂毒親との関わり方について悩む方は、「毒親との対決」とか「毒親への手紙」とかそういったワードを聞いたことがある方が多いと思います。世の中には、決別することを推奨するような情報もよく見かけますが、個人的にはケースバイケースであると感じています。ただ、タイミングの良し悪しはありそうです。今回、なぜこのタイミングで親に対して説教をしたのか、自分なりに振り返ってみたいと思います。

機能不全家庭で育つということは、「(健全ではない)その家の独特のルールに巻き込まれること」を指す。自分の場合、実家のルールで社会に出てしまい、これまでのやり方が通用しなくなったことで、身体のほうが悲鳴を上げだした。これは内側の悲鳴を聞き取れなかった反動だったようだ。休息する時間が取れたことで、初めて自分の内面に目を向けることに取り組むことができた。

自分の内面に目を向け、実家や親に絶望し、自分が支配されていたことを認め、休職して生産性がゼロになることで「役に立たない自分」を初めて味わった。この時、生産性がゼロでも生きていてよいのだ、他人に迷惑をかけてもいいのだと腹落ちしたことで、履き違えた全能感が消えていったように思う。

復職してからは、以前とは全く違う世界にいた。人はこんなにも助けてくれるんだと。今まで「迷惑をかけてはならない」と思っていたのは何だったのかと。まず大きく変わったことは他者への姿勢だった。持ちつ持たれつ、困ったときはお互いさまと心底思えるようになり、感謝しあえる関係性を築けるようになった。

さらに仕事へのスタンスも「すべき」という思考から「したい」という思考へ変化していった。この頃には、親を「親という立場に縛られず一人の人間としてみてみよう」と思うようになった。同時期に、兄が発達障害であると診断されたと知り、母もその傾向があるということが濃厚になった。発達障害ASD)傾向がある中で、子育てをしていたら、親も当時は精いっぱいだったのだろうと思えるようになってきたのだ。

しかし、あることがきっかけで、私はさらに視野を広げることになった。母は「発達障害傾向」だけではなく、パーソナリティ障害の側面(特にNPD)も強いのだと気づいたのだ。ASDADHDの方と接する機会があり、その中で、母のふるまいとは違う部分を多々感じ取ったからだ。もっとも違和感があったのは、母は「他人に絶対に謝らない、いつも上から目線である」ということだった。

成熟した大人であれば頭を下げる場面であっても、絶対に下げずに、悪びれた様子もなく、逆に相手を非難するといったことが今だにあるのだ。自己愛性パーソナリティ障害の理解をすすめていくうちに、目からうろこな事実を知った。NPDの人たちは「自分の感情を自分のものとして受け取ったことがない」そして「いつも緊張状態で神経をすり減らしている」というのだ。

記憶の中の母は、いつも誰かに怒り文句が絶えなかった。感情的にふるまっていたので、まさか「自分の感情に対する自覚がない」とは思いもよらなかった。母は行き場のない怒りを誰かにぶちまけ、相手を責め立てたり、正当性を主張したりして、「それはつらいですね」という言葉を相手から引き出していたのだろう。これは、自分が受け取るはずの感情をまわりの人に処理してもらっていると解釈できる。その感情の処理役が幼いころの自分だったとあらためて認識した。

多くの心理学やカウンセリングの書籍でインナーチャイルド(トラウマで傷ついた過去の幼い自分)を癒し、親を一人の人間として見つめ、当時の親へ思いをはせることで、関係性が修復したり強まるといった事例を目にしてきた。しかし、今だに他人に謝れない母を見たとき、数々の書籍の事例にあるような「心が通う」未来は全く想像できなかった。

自分の気持ちを伝えたとして何になるだろう?と思ったのだ。自分の感情を受け取ってこなかった相手に相手の気持ちが想像できないことは明白だ。「これはもしかして、まずは母が自分自身の感情を受け取るところからでは?」という確信が私の中によぎったのだ。これは、親へ過度に期待しなくなった冷静な自分がいるという自信にもつながった。

そして私は、自分の感情はあまり表に出さずに、過去に母の感情処理を「強制的にさせられていた」という意味を含ませながら、「自分の感情は自分で受け取ってください。」と告げた。たぶん、私が今伝えたいことだったのだ。そして、親が年老いたものの大病をしていない健康的な今だからこそ言えると思った。

幼いころ、すでに私は伝えていたんだ。「自分の気を晴らすために相手に当たり散らすのか?」と母に何度も問いかけていた。当時の私は自信を持っていいのだ。30年後、多くの人と信頼関係を築けるように成長した君も、同じことを伝えるよと背中を押してあげたい。(あ、感情がぐぉーーーーーっときた!)

ブログタイトルでは「思いを伝えるタイミング」となっていますが、実態としては「思いを伝える」のではなく「何が起きているのか伝える」となっていますね。たぶん、感情処理をしていない親に「思いを伝える」というのは土台無理なので、「思いを受け取る準備が必要」という気づきとしてまとめました。